2006年08月22日

時をかける少女とゲド戦記の共通性

まとまりませんが友人に出したメールを元に、問題の両作品の比較行ってみます。
まずは共通点から。

そもそも俺が、「ゲド」の問題点を概ね認めながら、擁護する根拠にしようと考えていたのは、その社会性というか、ああいう現状認識、問題意識の提示(というか明示)をやった事に対する共感だったわけですが、
「時かけ」において暗示された裏テーマ的なものも、ほぼ同じものであったように感じました。

陳腐ですが、現状に対する絶望感と、それに対してどう抗ってゆくのか?てな事ですね。

両作品とも、そういう時代性みたいな点が共通していて、同時多発的にそうしたテーマが扱われた事は、世の中の煮詰まり感が更に進行している、って事なんでしょうし、何より、我々のちょっと先輩くらいの世代(細田守と宮崎吾郎ってほぼ同年代だよな?)の世界観が、公に表現される様になったかと思うと感慨深いです。

で、まず出発点がそれで、他にも共通点が多いです。

・舞台が数箇所に限定される事。(閉塞感を産む効果がある?)
・片やダウナーが嵩じた親殺し、片や世界のリセット(タイムリープは自殺の暗喩が疑われる。何故手首に、、、なのか?)に何らの感慨も無い過剰な現実適応者(すなわちバカ)、という、今やありふれた若い衆を主役にしている事。
・前世代の物語の主役が、先達として上記の様な狂気や欠落を抱えた次世代の若者を教導する形をとる事。
・先達がジョーカー的な力を持っている事。
→ハイタカ(ゲド)は作中での数少ない魔法使いと言う設定だし、
→「時かけ」での先達である「魔女おばさん」は主人公が状況を変化させると、その都度変化を把握できている為、主人公の能力の枠外にいる様に見える。
(細田監督によれば、主人公がその都度説明しているが、その部分をカットした為そう見える、との事だが、、、。)
・しかし、実際の更正は、カップルになる相手役により齎される事。
・よってクライマックスが、カップルの対話である事。
・最終的な主人公の到着点が「生の一回性=現実または死」から逃避しない、という宣言である事。
・その相手役がデウス・エクス・マキナの役回りであり、結果、主人公との別れが設定されている事。
(ゲド戦記のラストでの主人公がヒロインに掛ける台詞は、「もののけ姫」のラストをなぞっているのだが、上記の結果として、180度逆の意味になっている。)

こんなとこですか。
と言う具合に、テーマにおいて近似の部分が多い為、やはり語り方、すなわち脚本、演出の優劣ははっきり出てしまう様に思える。

それだけに、両作品の興行においての位置関係が逆になっていれば、、、と思わずにはいられない。
「ゲド戦記」は、むしろ小規模興行から、それこそ「発見」され口コミに育てられるべきマイナー作品だったと思うし、切実に必要とする観客のいる、純文学的な作品だと思う。
「時かけ」はツボを押さえたメジャー作品として衆目を集めた上で、より踏み込んだ読解を許すエンタテイメントとして扱われるべきだった。

現状の両者の位置関係は不幸だとしか言い様がない。

両作品とも、「ハウルの動く城」での細田監督降板劇がなければ産まれなかった作品であるわけで。
そう言えば「時かけ」のカップルの別れの台詞は「ハウル」への皮肉になってるし、、、。
「アンチ駿イズム」も両者の重要な共通点ですな。

親の因果が子に報い、、、、。
posted by めたろう at 01:40| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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