2007年05月17日

松井周 サンプル A「ワールドプレミア」

うーむ。前回から1ヶ月経過、、、、。

とりあえず「松井周」2回目行ってみます。

途中まで、、、。


デビュー作で劇作家協会新人戯曲賞ノミネートとなった「通過」に続き、
二作目「ワールドプレミア」も連続してノミネートされた。

ところが、この作品が相当な曲者であった。
というても二年も前の作品なので、内容殆ど忘れてしまったので、
当時「一行レビュー」に載せたのを読み返して、手がかりにしてみよう。

「うーん。不気味?不安?不条理?文章や映像でやれば比較的簡単な内容だから安易との批判も出るだろう。一幕物演劇でやったのがミソ、なんだが、需要があるかっつうと、、、。新し物好きは観た方が良いかもしれんが、客に不親切なのは間違いない。」

なんか随分キツい書き方してるな。
その他の作品へはどうだろう?

「通過」
良い例えではないが、Drエクアドル的世界を青年団のフォーマットにのせ、客の退路を絶つべく感情移入しづらく作られており、嫌な気分のまま放り出されるリアル系の問題作。これから見に行く者は、下記の他の感想を踏まえ自己責任にて判断せよ。

「地下室」
処女作「通過」の続編あるいはVer.up的作品。役者の生理に譲った分、見易さ、判り易さ、まとまり、UP。但し、内容のエゲツなさは相変わらずで観客を選ぶ。世間の「俗」のありがたみがわかるお話。

「シフト」
「フェイク」が今後のテーマである様だが、となると青年団の強固な「リアル形成力」との対決がいよいよ課題となるだろう。今回は古屋さんを初めとするモノローグ群が笑いを誘い、客を幻惑できたと思う。一方物神論的なテーマが掘り下げ切れなかったのは課題。

上記の内、「地下室」が星4つ。「ワールドプレミア」「シフト」を星3つ。「通過」の時は「感想」にして逃げておる。我ながらチキンな事である。

一行レビューで上記を検索して再確認できたが、「ワールドプレミア」だけが他の作品の半分程しか寄稿がなく、やはり皆感想を書きにくい作品だった事が伺える。

俺自身の中でも「ワールドプレミア」は当初評価が低かった。
とても野心的な作品なのだろうとは思ったが、寓話的なスタイルや、感情移入を拒むような登場人物達等、もともと反倫理的なカラーと合わせて、あまりにも観客を突き放す作り方であり、「この方向は行き詰まる」と批判した記憶がある。

その後、「地下室」では処女作をグレードUPした内容で好評を博した。
そして最新作「シフト」なのだが、ここで再び、「ワールドプレミア」で登場した要素を部分的に再登場させ、今度はうまく着地できた、、、と言うのが俺の見立てである。

よって、今となっては実は「ワールドプレミア」が4作品中の最重要作品だと思われるのだ。



「ワールドプレミア」の扱ったテーマは、記憶の解体、人格の解体、そして時間軸の解体であった。
実は、買ったはずの戯曲が見つからんので、やはりディテールが全然思いだせん、、、。
とりあえず、思い出せる範囲で進行。

「近未来、砂漠の中の隔離された施設」
「なにやら優生学的な、去勢にまつわるらしい施設」
「受動的な主人公が手術を待つ間に見る、比較的リアルな世界観をもった回想」
「のはずが回想世界の方のリアルさが強く、どちらが主の世界で
あるかが怪しくなってくる」
「施設の中の時間や、回想世界内の時間はそれぞれ一応直線的に進む様に思われるが」
「回想と施設を行ったりきたりする主人公、、のはずが焦点のあたるキャラクターが別の人物にシフトしたり、最初の主人公の人物設定が曖昧になってきたり」
「終いには、二つの世界の時間軸がループして同じシーンが違う役者で演じられたり」
する、混沌とした世界であった。

導入部の寓話(近未来SF)的世界〜リアルなアパートの情景描写を行き来しつつ、
徐々に空間的な切替に時間的な切替が加わり、
当初はカットイン/アウト的な明瞭な切替だったものが、フェードイン/アウト的な混濁したものに変わってゆく。

当然この手の、場面や時間がどんどん切り替わってゆく手法は、青年団以前、青年団以外ではありふれたモノと思われようし、
新人戯曲賞の選評で横内謙介が「かつて自分達もやった不条理劇」といった書き方なのも、うなずける部分はある。

ただし勿論、この作品での場面の切替は、通常の、
「芝居ならではのおやくそく」的な、「場面転換」「カメラの切替」的なものでは無く、
「一人称の、意識の偏在」と言うべき、
病的な感触のものであった。

俺にとっては、筒井康隆の夢テーマの小説群でおなじみの、
「<額縁を外した>メタフィクション」
「主人公が少しずつ別の人物に変容する」
「論理性のない、飛躍した場面転換」
等を想起させるものだった。

それで、一行レビューには「小説や映像なら、、、、」と書いたのだが。

この一人称の問題、演劇の世界ではあまり意識されて無いのでは?と思われる。
複数の実在の人間が、自意識を持って動き回る演劇の世界において、
観客が「神の視点」以外の、より一人称的な没入の仕方で観劇するのは途轍も無く困難な事だと思われる。
「役者やキャラクターに対する没入では無く、一人称視点で芝居を観る」為に有効な方法論は「役者になる事」になってしまうからだ。

夢オチはじめ、「これは一人の人間の自意識です」と言う枠組みを提示した上で作っていったとしても、その作品固有の「おやくそく」として認識されるだけであって、
「一人称視点を疑似体験する」事に結びつけるのは困難だ。

次に考えられるのが、「おやくそく」の破壊または再構築。

これは正面切ってやるとメタ演劇ギャグになるわけだが、その場合は「神の視点を更に引き上げる(拡張する)」効果へ向かい、「一人称体験」とは逆に向かうと思われる。

よって、弄る「おやくそく」は吟味されなくてはならない。
そこで、
「記憶の解体、人格の解体、時間軸の解体」が登場する。

posted by めたろう at 02:46| 埼玉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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