2005年07月18日

下北沢OFFOFFシアターで知り合い芝居

フラフーパーとUNIT-フルフル

下北沢OFFOFFシアターで、フラフーパー「何かのプレイ」を見た。知り合い絡み。
奇しくも、同じく知り合い絡みで先月末に観た、UNIT-フルフル「此処にいるはずの無い私」もOFFOFFシアターでの上演であった。
両者をリンクさせてレビューしてみよう。



「此処にいるはずの無い私」では登場人物の殆どが名古屋弁を話す。そこそこ金持ちだった名古屋の一家が大借金で夜逃げして、既に上京していた小説家志望の次女の狭いアパートに転がり込む話。三姉妹の長女と三女、その叔父、三姉妹の幼なじみの姉弟等が狭い部屋に集まり、名古屋弁の日常会話をし、ドタバタ、人情話を繰り広げる。
その他にもこの作品のポイントはあったが、やはり大きなウリの一つが、三姉妹がマッタリと会話を続けるシーンで、この部分は静かな演劇の範疇に入ると思われる、リアル志向の会話劇になっていた。「名古屋弁」「姉妹」などの要素によって、「身内の関係性」を強調するものであった。
一方「何かのプレイ」は「若草物語」を「方言(スラング)」「ミュージカル」等等、様々な語り方で再構成する、という実験作。同じく狭い部屋でドタバタ人情劇を行う。この作品では四女のエミーを双子とした上に、それぞれにローリーとジョン・ブルックとの二役を演じさせたりするなどの根本的なレベルから、キリスト教への深い帰依を新興宗教への依存に書き換える等のパロディ、黒人メイドの訛りを使った小ネタ迄遊びがてんこ盛り。
で、これまた奇しくも「姉妹の会話」が頻出し、これを各地方の方言、若者言葉、ミュージカルなど大きな意味での「方言」で語る。「没落した一家の話」「主人公が次女で作家志望」である点も共通。(フルフルの方が「若草物語」を意識したのかな?)

にも拘らず、両者のベクトルは正反対。
企画の出発点が正反対なので、当然と言えば当然。

これは、前者がテキストの内容(テーマ)、すなわち脚本の中での自身の心境(題名にあるような「自分探し」にまつわる、残念ながら退屈なもの)へのこだわりが強く出ていて、逆に後者がテキスト(原作)をどのように読み替えるか、すなわち表現形式へのこだわりに固執している事に由来している。

で、それぞれの狙いと見る側(俺の感想)に齟齬があるのも共通。
前者では、明らかに役者の力に拠ってもたらされる方言による会話や、ドタバタ部分、そして脚本中では本筋から飛躍したシュールギャグの方が、話の本筋より面白かった。
後者では、導入部こそ「ああ、こんなやり方があるのか」と興味深かった。
「語り方」がランダムに変化する設定で、四姉妹はお嬢様言葉から、ヤンキー言語、ギャル語、北海道弁などなど頻繁に変わる。一方母親役やメイドの語り口はほぼ変化しない。という具合に曖昧に設定されている。「語り口をモザイクにする」狙いなのだろうが、これはすなわち規則性が無い、という事でもあり、途中から飽きてしまうところがあった。
そうすると不思議なもので、「若草物語ってこんなんだっけ?」と原作に興味が向かうのだ。
あらすじをより深く伝える事に注力すべきだったのでは無いかと思えたのだ。

補足するなら、前者に対する後者での大きなアドバンテージを上げれば、(身内褒めになってしまうが)知り合いの音楽担当の選曲センスに依拠したミュージカル部分であると思う。
客入れでは印象派のピアノ曲など、上品で穏やか、原作のパブリックイメージに沿った曲で文芸作品らしい雰囲気を作り、一方ミュージカルではおそらく後期のピンクレディーと思われる、エロティックな歌詞の曲で飛躍した語り口を生み出す事に成功した。(ピンクレディーという選曲は、ほぼこの音楽担当の趣味と判断できそうだ)
前者では音響、選曲、音入れのタイミングがベタ過ぎて、減点ポイントになった面がある事を思えば、この、音楽面の纏まりの良さが後者の出来を救ったと言っても良いと思う。
posted by めたろう at 23:11| 埼玉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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